Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. It is harder to crack a prejudice than an atom.

本能寺の変

本能寺の変は、時の権力者である織田信長を家臣の明智光秀が本能寺において攻め滅ぼした謎の多いクーデターである。本能寺の変は光秀の単独実行であるというのが定説にっているが、本書は、室町幕府の将軍として、権勢を取り戻すべく活動していた足利義昭も大きく絡んだ事件として仮説を立てている。

鞆の浦幕府

広島県福山市に鞆の浦(とものうら)という海上交通の要所となっていた港がある地域がある。織田信長に担がれ、一時は京都で将軍として権勢をふるった「足利義昭」は、信長に追放された後、本能寺の変の前には、この地を治めていた大名である毛利家の庇護のもと、屋敷を構えており、鞆の浦幕府と呼ばれる。

信長から追放された後、義昭は、中国の毛利、越後の上杉、甲斐の武田、四国の三好、近畿の本願寺と結び、信長包囲網を作り、信長を苦しめたが、武田、三好、本願寺が信長に破れるに至り、包囲網が破れた後、後世ではあまり注目されていない。しかし、著者はこの時期の鞆の浦幕府について、十分な財力と各地の大名への働きかけを積極的に行なっていたと見ている。

また、鞆の浦幕府は、毛利氏の当主輝元を副将軍、毛利家の重臣達を幕臣とすることで、巨大な軍事力を手に入れた。さらに京都五山や鎌倉五山などの当時の有力な寺の住持の任命権を要していたり、東アジアの外交権も「日本国王」として関わっており、寺社や東アジアと交易していた西国大名も義昭を無下に扱うわけにはいかず、進物を送ったりすることで収入を得ていた。もちろん毛利氏からは直轄地を与えられ、定期的な収入もあったとしている。

本能寺の変での画策

本能寺の変の直前、信長の家臣である羽柴秀吉は、中国方面司令官として、毛利氏の備中高松城を攻めていた。この備中高松城から鞆の浦までは、直線距離で60kmと、目と鼻の先であり、備中高松城が陥落し、毛利方が敗走もしくは撤退となると、織田方の軍隊が鞆の浦を目指して殺到するのは火を見るより明らかだった。義昭がなりふりかまわず、元幕臣の明智光秀に誘いをかけても不思議ではない。

その仮説の根拠の一つとして、明智光秀に合流した軍勢の中に、鞆幕府の家臣である北畠具親の家臣が含まれていた。著者は自らが京都に戻るための先遣隊として派兵したと考えている。また、光秀が反信長派の土橋重治に当てた書状から、本能寺の変直後から、信長から追われた領地への復帰と統一という重治の迅速な行動が、義昭からの命令であり、文面から光秀も義昭から指示を受けていたものと推定されるとしている。

おわりに

本書では、光秀が謀反に至った理由や、羽柴秀吉の中国大返し及び山崎の戦いで光秀を敗走させた裏にある情報戦、光秀方に属するであろう大名への調略などについて考察している。来年の大河ドラマの主人公は明智光秀とのこと。どのような人物像で物語が展開するのか楽しみだ。

以上

本能寺の変
藤田 達生 著
2019/6/12 初版発行

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